ニセコ東急 グラン・ヒラフ(英: NISEKO TOKYU Grand HIRAFU)は、北海道虻田郡倶知安町にあるリゾート(スキー場)[1]。 ニセコアンヌプリの裾野に広がる「ニセコユナイテッド」(ニセコアンヌプリ国際スキー場・ニセコビレッジ・ニセコ東急 グラン・ヒラフ・ニセコHANAZONOリゾート)の1つ[2]。スキー場と宿泊施設があり、ひらふエリアを東急リゾーツ&ステイ、花園エリアを香港資本の日本ハーモニー・リゾートが運営し、両エリアを山腹の連絡コースや山麓のシャトルバス(冬季のみ運行)で行き来することができる。また、ヒラフエリアを巡回するシャトルバス、各リゾート間と?知安市街を結ぶシャトルバスもある(いずれも冬季のみ運行)。 ニセコは、ひらふ地区を中心に口コミによって2000年代はじめからオーストラリア人観光客が増え始め[3]、オーストラリア資本によるマンションやコンドミニアムなどの不動産開発が進んだ。特に、倶知安町字山田は2006年から3年連続で住宅地の地価上昇率全国1位になった[4][5][6]。2000年代後半からはアジア地域でも注目されており、中華人民共和国(香港)やマレーシア資本による開発が進んでいる[7]。 日東商船が竹を使った合成板のファイバーボードを増産する計画があり、高橋清吉倶知安町長(当時)のトップセールスによる誘致もあって町内に工場を建設し、原料の竹を切り出すための軽便索道を造ることになった[8][9]。ところが、工場建設中に日本国外からの競合製品が大量に輸入されるようになり、工場は立ち行かなくなってしまう[9]。その頃、『全日本スキー選手権大会』を比羅夫口コースで行う計画があったが、大会開催に必須のチェアリフトが無かった[8]。そこで、工場の索道をリフトにすることを思いつき、北海道スキー連盟と倶知安町が北海道ファイバーボードに陳情し、リフト設置が実現した[8]。
概要
沿革
1961年(昭和36年):「ニセコ高原観光」発足(親会社は日東商船[10])。「ニセコひらふスキー場」オープン[8]、スキーリフト(高原リフト)設置[11]}[12]。
1962年(昭和37年):『全日本スキー選手権大会』(アルペン)開催[11][13][12]。
1965年(昭和40年):「サンモリッツリフト」がアルペン競技会場となったコースにスキーリフト(アルペンリフト)設置[10][12]。
1970年(昭和45年):『第25回国民体育大会』冬季大会開催[11][14]。「ニセコ国際ひらふスキー場」と改称[8][12]。
1976年(昭和51年):アルペンリフト・ニセコアンヌプリ国際スキー場・ニセコモイワ国際スキー場(現、ニセコモイワスキーリゾート)・大和ルスツスキー場(現、ルスツリゾート)リフト共通回数券の取り扱い開始[15]。なお、後にニセコモイワ国際スキー場と大和ルスツスキー場が離脱し、高原リフトとニセコ東山スキー場(現、ニセコビレッジ)が参加して、ニセコアンヌプリ内4スキー場の往来が可能となる。
1980年(昭和55年):ニセコ高原観光が国設ワイススキー場のリフト2基を買収[8]。
1985年(昭和60年):ニセコ高原観光の経営(ニセコ国際ひらふスキー場・ニセコワイススキー場)がジャパンライン系から東急不動産傘下となる[11][16][12]。日本国内で初のクワッドリフト「アルペンセンターフォー」(後の「エース第2クワッド」)が営業開始[17][18]。
1986年(昭和61年):『第41回国民体育大会』冬季大会開催[11][19][20]。